デンキチの木片小魚物語3

Sprout Lures の製作記録と喜怒哀楽日記

口角の傷は苦闘の証

 GWを前に悲しい事故が続いています…。

 さすれば、知床で起きた観光遊覧船海難事故(業過も視野に捜査中)が最初に思い浮かぶと思いますが、ここ宮城県でもありえない事故が起きたと…。

 昨日、蔵王のお釜カルデラ湖)で死亡事故が起きました。

 なんでも氷結したお釜の上でスキーをしていた際に氷が割れて落水したとのこと。(そもそも、あそこは立ち入り禁止でしょうに…。)

 日常・非日常を問わず、私たちがとる行動の中には、必ず魔境(まさかい)があります。平時には姿を隠している魔境見い出す習慣(訓練)が必要なのでしょう。

 悲しいかな…人間は反省しない生き物です。

 そして、容易に確証バイアスの罠に嵌ると…。

 こうした人間の特性認識した上で、安直な行動や判断を回避し、時には一度立ち止まって自省(客観視)する時間を持つことが重要でしょうね(自戒)。

 とまれ、今はただ行方不明の方々が早期に発見される事、そしてお亡くなりになった方々の御冥福を祈ると同時に、来る大型連休の平穏を願うばかりです。

 

口角の傷は苦闘の証

 暫くの間、止まっているかのように思われていた仏像彫刻(以下、仏彫)ですが、実はルアー製作の陰で細々と進めておりました。

 確実に仏頭の数だけは増えています(笑)。

 直近(今冬〜春)は、聖観音仏頭を彫っていました。

 本作で2本目となる聖観音ですが、相変わらず逡巡してしまうのは顔立ちです。

 まぁ、全般的に不出来なのは百も承知ですが、特に鼻と口元の造作に関しては技量不足見識不足を痛感させられています。

 此度も、悩みに悩んで何度も彫り直した結果、観音様右口角深い傷を残してしまう結果になりました(泣)。

 こんな反省を積み重ねつつ、自分の中にある朧気なイメージの具現化を目指して、私の手仕事人生は続いて行くということなのでしょう。

 これまで仏彫を続けてきた中で感じ始めたことがあります。

 それは、個性という安直な誤魔化しに逃げることなく、過去より連綿と続いてきた様式を学ぶという姿勢を培う機会になっているということ…。

 それは、小さな歩みを重ねることでしか成長し得ない行為が持つ素晴らしさの一要素でもあるのでしょう。

 俯瞰して眺めれば、こうした忍耐にも似た行為(やりたいようにやれない)にこそ、他の分野にも転用できる技術・知見が詰まっているのは明らかで、今後の手仕事人生に於いて、大いに有効活用していきたいと考えています。

 はたと気づけば、だったハナミズキ大輪を咲かせ、沙羅の木には若芽が芽吹いておりました。そんな穏やかな春に仕上がった聖観音に、何某かの意味を見い出そうとする自分がいます。

 それもまた、人間の性と云えるのでしょうね(微笑)。

私的読書史:4月

 あいかわらず、読書だけは「空気を吸うよう」に続けています。と云っても、上期・下期に分けて記事にすることができなかったのは反省ですね(汗笑)。

 さてと、上期のリストは以下の通りです。

  • GIGA MANGA
  • 図説 人魚の文化史
  • 仙台箪笥 錺金具の耀き ー鐵を育むー

 この時も、いわゆる読み物と云うよりは、後学のための資料作品のモチーフとなるようなネタ本を探していたように思います(笑)。

 日本の漫画の変遷を描いた本人魚の本は、良くまとまっていたし、視点もユニークでしたね。また、仙台箪笥の錺金物(かざりかなもの)に焦点を当てた本は、製作過程まで掲載されており、資料的な読みごたえがありました。

 そして、下期は以下の通りとなります。

  • 海坂藩 遥かなり
  • 「戦争」が生んだ絵、奪った絵
  • 文学の極意は怪談である
  • 漱石文学の虚実

 下期は、眺める系読み物系の本をバランス良く選んでますね。特に漱石に関して云えば、人生4度目のマイブームが到来しているような気が…(笑)。

 「文学の極意は〜」も面白かったなぁ。読み物としても資料としても秀逸でした。著者が「怪談である」断言するに足る根拠時代考証を含め)が明確で、すんなりと読み込めました。

 また、古典的名作を生んだ著名な作家の多くが、時流に呼応するかの如く怪談を創作していたという事実を知り、浮世離れした彼らの人間像が、私の中で更に立体的になったと感じています。

 そして「海坂藩」と云えば藤沢周平ですよね。

 蝉しぐれ」「武士の一分」「隠し剣 鬼の爪」「必死剣 鳥刺し」「たそがれ清兵衛他多数の作品が映画化されているのでご存知の方も多いでしょう。

 かく云う私も、10数年程前になりますが、家族で藤沢周平記念館映画のロケ地を巡って歩いたことがあります。(また訪れたいなぁ〜) 

 庄内エリアは、本当に魅力が詰まった地域です。

 藤沢周平は、今は亡き親父が晩年になって好んで読んでいた作家でした。

 車の免許早期返納した親父は、近所の児童館にやってくる移動図書館で本を借りていました。続き間の柱を背もたれにして、柔らかい日差しが射し込む広縁で胡坐をかいて本を読んでいる親父の姿を思い出します(懐)。

 今更ながらですが、晩年を静かに過ごしたいと願っていた親父が、藤沢周平の作品を好んで読んでいた理由が分かってきたような気がしています。 

 とまぁ…「借りてきた本」それぞれに「思い入れ」があるんですよね…。

 借りる時には意識していないのですが、一冊一冊にフォーカスしてみると「その本を手に取る」という行為に至るだけの理由が確かに存在していると…。

 そんな感慨に耽りながら、GW読書に勤しもうと考えています。